書芸という人生

----14歳のグチ屋----

中学生のころ、

ある日を境に同級生から無視をされた。

思春期ではよくある風景のひとつだろう。

当時、誰にも言えないストレスを

どう発散させてよいか分からず

私のことを知らない誰かに心の内をぶちまけたいと

思っていた日々が続いていた。

ある日、東京の深夜に繁華街で人のグチを聞く

「グチ屋」をしているお兄さんをテレビで見た。

衝撃的だった。私も駆け込みたいと思った。


同時に、自分のように聞いてほしい人が

いることに安堵した。

その衝撃は衝動になり、

私を突き動かした。


1人、バスに乗り、遠くの街へ繰り出し、

スケッチブックに

「グチ屋」と書いて看板にして座り込んでみる。

14歳だった。

自分と同じ人がどこかにいるのなら、

私が聞く人になる。

ドキドキしながら、バスに揺られて、

昼間の繁華街の入り口に向かった。


当時、声をかけてくれた人たちを

今も思い出す。

いつもとは違う行動、

知らない町、

知らない人たち。

帰りのバスでは終わった安心感と

何かをやったという高揚感で

心臓がドキドキしているのを感じた。

ところが、

2回目のグチ屋で警察に止められ、

実にあっけなく私の冒険は終わった。


手元に残ったのはグチ屋の看板にした

スケッチブック。

あまったページに、

思いを書きなぐるようになった。

それは私の心の拠り所となり、

今でも続いている。


----友人が見せた顔----

20歳になったある日、

私のスケッチブックを友人が読むという

事件が起こった。

遊びに来ていた友人。

部屋を離れて戻ってきた時、

スケッチブックのページを

めくる友人を見て

声が出ないほど、

ひやりとした。

誰にも見せなかった心の内を覗かれた。

ところが友人はポロポロと泣きはじめた。

私も同じ気持ちだったんだと、

いつもリーダーのようで気丈で

明るい友人からの意外な一言に、

胸を撫でおろしながら、

何か許された気がした。


その日をきっかけに

私は書いたものを見せるようになった。

自分が知らない世界が、

ありそうな気がした。

路上に座り、

言葉を書く。

飛行機の隣に座った人に、

好きな言葉を聞いてみる、

感動をくれた人に、

感動を返しに行く。

雪の降る日に、

寒いだろと怒鳴ってくれたお兄さん

栄養ドリンクを無言で置いてくれた

サラリーマンのおじさん、

誰も立ち止まらない路上で、

終わり際に温かい紅茶を買ってくれた

警備員のおじさん、

いろんな出会いを通して

私の心は開いていく。

喜怒哀楽…

感じる環境や背景は違っても、

共鳴するものがある。

少なくとも、「心」に関しては。


----書芸家----

とにかく「何かを書く」ということだけを

ひたすらに続けてきた。

それを芸事として、

私は「書芸家」と名乗っている。

それは「何かに成る」ためというよりも

生きる手段の1つなのだと思う。

何を書きたくなるかは

きっともっと変わっていく。

それを常に楽しみたい。

川辺に座って、

小魚を発見して

鳥のさえずりを聴いて

大きく背伸びをしながら、

「美しい」と思った。

木々に沢山の虫や鳥や

獣が住んでいるように、

マンションを眺めて

「建物って木と一緒だな」と思った。

独り言を呟きながら

「この声すらも、鳥のさえずりと一緒だな」と

思った。

同時に、「この人生が終われば、

私はもう産まれてこないのだな」とも

感じた。

この風景が見れて、

体を揺らしたくなる音楽があって

また会いたいと思う人たちがいて、

もっと知りたいと思う人たちがいて

この星に生まれて、

この時代で、

同じ時に出会えて良かったなと

心から思ったら涙がでた。

溢れるものをもっと感じたい。

理由は後から時間をかけて探せばいい。

なくてもいい。

鳥肌が立つもの。

涙が落ちるもの。

理由が浮かばないものとたくさん出会おう。

溢れ出した何かを、

言葉にしなくても良い。

浮かんだ言葉は愛を込めて書こう。

私が書いたものなら、

どんな形でも「書芸」になる。


----あふれるもの----

今では

「書きたくなったものを書く」という

ごくごくシンプルなことに

軸を置こうと思った。

「なぜこれを選んだのか?」

どんな行動にも、

明確な答えを求められることに

慣れている今。

「ただ選んだ、

ふと手に取った、

気づいたら掴んでいた」

そんな行動って

人生で度々ある。

理由が浮かぶより先に

行動しているとき、

体から溢れるものってある。

でも

「理由を言語化できなければいけない」

いつからかそんな呪いがかかっていて、

シンプルな好きを

複雑にさせるような気がして、

実際私はそうなっていた。

それは小さなノイズになって

1日単位で見れば気にならなくても

長い人生を引いて見ると

大きな振り幅になるような気がする。

確かなことは、

どんな人生を生きていこうと、

私はもう二度と生まれてこない。

どんな時にも、

今見えるものを抱きしめていこう。

私は今、この瞬間に

あふれてくるものが大好きだ。

書芸家 山縣さゆり

感情を書き殴るCalligraphy、 Inspration Arts、 「今」あふれてくるものを キャンバスに閉じ込める。